人生は死ぬまでの暇つぶし  自然にその日を迎えるまで、サバイバル(健康・経済・社会情勢・天変地異・・・)  真実、真相、本質、一を知りたい

★マイナス金利とは、戦時体制の資産課税である! 【後編】

(前号102号の【前編】からの続きです)

しかし、「アメリカの日経新聞」である『ウォールストリートジャーナル』紙が、こうやって日本のマイナス金利を散々バカにしている一方で、なんと、当のアメリカの中央銀行総裁である、イエレンFRB議長(1946-)が、ついついポロっと
「実は、アメリカもマイナス金利も検討している...」と、こぼしていました。
これまでアメリカは、「金利を上げる、上げる」とあれだけ言い続けて、世界をだまし続けてきた
最後に、この体たらくです。


(転載貼り付け始め)

●「マイナス金利、FRBで「検討している」=イエレン議長」

(原題:"Yellen Says Fed Should Be Prepared to Use Negative Rates if Needed"

「イエレン連銀議長は、FED(FRB=米連銀)は、必要であればマイナス金利を
採用する準備をするべきであると述べた」)

By Jon Hilsenrath

ウォールストリートジャーナル日本版 2016年2月12日
http://jp.wsj.com/articles/SB11281588234518813488504581534923680026958


米連邦準備制度理事会(FRB)のイエレン議長は11日、政策金利を
マイナス圏に引き下げる可能性をめぐりさらに掘り下げて説明した。
FRBはそうした案も「検討している」としつつ、評価はまだ終わって
いないと述べた。

欧州中央銀行(ECB)と日本銀行はすでにマイナス金利を導入し、
市中銀行が中銀に預け入れる預金に手数料を課している。

イエレン議長は、FRBが同様の策をとる必要はないとの見方を示したが、
景気が悪化しそのような措置が必要となる状況に備えるべきだとも語った。

FRBは2010年にマイナス金利を検討したことがある。2日目の議会証言に
臨んだイエレン議長は、「(マイナス金利を)再び検討している」と
明かした。

この日は上院銀行委員会で証言し、利上げは「既成の軌道を
たどるものではない」と強調した。

FRBの規制政策に関する議員の複数の質問にも回答した。

大手金融機関は昨年、米金融システム全体を危険にさらしたり政府の
救済を要請したりすることなく金融危機に対応する方法を記した
「生前遺言(リビング・ウィル)」を提出した。

これにつきイエレン議長は、当局が現在その評価を進めていると述べた。

「これらの計画の評価に積極的に関わって進めている」とし、
「不十分な点を探り、具体的に指摘する用意がある」と続けた。

巨大金融機関のストレステスト(健全性審査)をより厳しいものに
変更する可能性にも目を向ける一方、資産規模500億ドル程度の銀行に
対しては基準を緩める可能性も検討していることを明らかにした。
変更は来年まで実施されない見通し。

議長はまた、システム上重要な金融機関(SIFI)の指定を外れるには
どうすればよいか大手銀に伝えるのは適切とは思えないとの認識を示した。
議長自身も委員を務める米金融安定監視評議会(FSOC)が行う
SIFI指定は「恒久的なものとは意図されていない」と述べた。

FSOCは指定が適切かどうか定期的に見直しており、SIFIに指定
される各機関に詳細な理由を提供している。

ただ、「子細に管理しすぎないよう注意が必要」だとイエレン氏は
付け加えた。

(転載貼り付け終わり)



続いて、第二次世界大戦へ突き進んで行った、
戦前の日本政府が、現在の安倍政権と同じように
中央銀行による「国債引受け」政策を実施ていた
という歴史の事実について書きます。


当時の日本政府も、第二次世界大戦を続けるため、
その戦争費用を「日銀(中央銀行)による国債の引受け」
という、禁じ手の「財政ファイナンス(国家予算への
中央銀行からの無制限融資)」政策でまかなっていました。

歯止めのない「戦争経済」へと暴走することができた、
その資金源が、日銀だったということです。


この重大な「史実」を、いまこそ振り返るべきです。



(引用始め)


■日中戦争の勃発と国債公募の失敗


1937年7月7日、北京郊外南西約20キロの盧溝橋で
事件が発生した。この事件は北支事変と名付けられ、
不拡大を前提としつつも、朝鮮軍、関東軍、さらに内地からの
派兵が決まった。

7月29日に第七十一回議会は約一億円の北支事件費を
成立させ、そのファイナンスを国債発行によってまかなう
ための法律「北支事変に関する経費支弁の為公債発行に関する件」
が同日に発布された。


(中 略)


・・・合計で五億円を超す北支事件費のうち四億円が国債に
よって調達されることになった。そのうちの前者の一億円が
日銀引き受けではなく、公募発行されることになった。

国債の公募発行は、13の銀行と4つの信託会社からなる
公債引き受けシンジケート団の申し出によるものとされている。


(中 略)


1937年8月に 「り」号三分半利国庫債券 が公募発行
されたが、事変拡大と追加予算に伴う国債の増発懸念とが
相まって、株式市場の暴落をもたらし、金融は逼迫(ひっぱく)
に向かった。

このため賀屋蔵相は、9月6日に「今後発行いたしまする公債は
当分総(すべ)て日本銀行の引受と致しまして、先ず市場に
資金を撒布して後に、然るべき時に是(これ)が吸収を図る
ということに致す次第であります」と衆議院で述べた。
さらに、9月13日に「今後当分の間 国債の発行は原則として
日本銀行の引受による方針を採る」ことを明らかにした。

こうして、一億円の国債公募の払い込みは9月15日と
10月15日に繰り延べられ、国債公募もこの一回限りで
打ち切りとなった。

この国債公募発行の失敗は、日本銀行の引受けによる国債発行
がいかに政府にとって便利であったかを示している。

(中 略)



■日銀による国債担保貸出金利の引下げ


日中戦争勃発によって、国債のさらなる増発が決定づけられる
と、国債消化策はさらに強化されていった。盧溝橋事件直後の
1937年7月15日に、従来は公定歩合よりも日歩一厘
(ひぶいちりん)高かった日銀による国債担保貸出金利が、
公定歩合と同一水準の日歩九厘に引き下げられた。(中略)

・・・銀行は国債を大量に保有したまま、日銀から国債を担保に
融資を受けると、日歩一厘ほどの利ザヤを確保することができた。
銀行は市場に国債を売却するよりも、日本銀行から国債を担保に
借り入れる方が有利となった。銀行は国債を手放すことなく、
手許準備を獲得できるようになったのである。


(中 略)


こうして国債は銀行にとっては、市場で売買を行うことなく
いつでも現金に変わりうる便利な資産となり、国債保有の
インセンティブが急速に高まった。

さらに、1941年9月には「昭和16年度資金統制計画綱領」
が閣議決定され、国債の消化目標を預貯金の増加額に占める
比率として金融機関各業態ごとに設定した。

これらを背景に、日銀から市中への国債転売率は高位安定を
続け、表面的には国債の消化はきわめて順調であった。


(中 略)


・・・これらの銀行が保有する国債はいつでもハイパワード・
マネー(「マネタリーベース=現金通貨+民間銀行の
日銀当座預金」の別名)に転換できるわけだから、
インフレを加速させてゆく構造がここにビルトインされてしまった。



●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、426~428ページから)

(引用終わり) ※カッコの補足は引用者による。



最後の部分を読んでいると、まるで、私たちの
現在の安倍内閣がじわじわと推し進めている、
経済統制の動きと、非常によく似ていることに
気付きます。

第二次世界大戦へ突き進む、当時の日本政府と
日銀との間でも、まったく同じような政策が
強硬されてれていたということです。


引用したのは、

『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊)

という著作です。


これを読むことで、私たちの日本国家が、
ほんの一世代くらい前の、とても近い時代に
経験した、日銀と政府の経済政策失敗の歴史を、
現代の日本国民全員が知ることができます。

文字が小さく長編の同書は、日本政府や欧米英の
政府による、第二次世界大戦前の切迫した財政政策の
実態や、当時の各国中央銀行による金融政策の
具体的な様子を、しっかりとした歴史記録や
文献からまとめ上げた良書です。


著者の、富田俊基(とみたとしき、1947- )氏は、
野村総合研究所に30年以上在籍し、
研究理事も務めていました。

国の財政制度や債務管理政策に関連する審議会や
懇談会委員も長年務める人物です。


さらに、この本によると、第二次世界大戦の
急速な激化によって、日本やドイツばかりではなく、
金本位制や近代金融制度の本家であるイギリスや
アメリカでも、世界中が、ルール破りの
「タコのタコ足食い」である「中央銀行による
政府国債の直接の買い上げ、引き受け、ファイナンス」
政策を、実行していたことが分かります。



(引用始め)

ハイパー・インフレーションの経験から国債発行が制約されて
いたドイツでは、ヒトラーが1933年5月から密かに軍備
拡張資金の調達を始めた。

国から発注を受けた軍需企業が冶金研究所(メフォ)という
ダミー会社に手形を振り出し、その手形に政府保証をつけ、
ライヒスバンク(中央銀行)が商業手形として再割引する
という方法である。予算書にも表れないこの方法によって、
大戦までの軍備の二割が調達された。

ドイツで国債発行が再開されたのは、1934年6月になって
からであった。そして、34年9月には外国為替取引の
全面的な統制が行われ、36年から物価が、38年から賃金が
凍結された。

さらに、39年6月に中央銀行を「国家機関」として、
「国が無制限に資金を調達できる仕組み」を作った(各カッコ
は引用者による)。

この仕組みのものとで、大量の4.5%利付国債(満期は
33~37ヵ年)が金融機関に直接発行された。

国債を市場では発行せず、個人向けにも発行しなかったので、
金利は変動しない。このため、ナチスの国債はこうには
物音一つ立たなかったと伝えられている。


(以後、略)


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、401~402ページから)

(引用終わり)



以上の引用のなかにある


「国債を市場では発行せず、個人向けにも発行
しなかったので、金利は変動しない。このため、
ナチスの国債発行には物音一つ立たなかった」


という体制が、まさに恐ろしい【戦時統制経済】の
もとに置かれた国家の状態です。


いまの日本で、これからこれに近い体制が
じわじわと整えられて行くでしょう。

「金本位制」を自国の通貨体制の礎(いしづえ)と
してきたイギリスでさえも、第二次世界大戦の
戦時経済政策のために、英国政府によるによる
「空手形の国債発行」を、イギリスの中央銀行である
「イングランド銀行」が引き受けざるを得なくなって
いたという歴史の事実も、以下の部分にハッキリと
書かれています。



(引用はじめ)


連合国側の戦費調達は、どのように行われたのか。1939年
9月にドイツがポーランドに侵攻するや、イギリスも資本移動
帰省を導入し、10月には公定歩合を2%に引き下げた。

さらに、40年3月には国債の最低取引価格を引き下げ、
イングランド銀行が購入することによって、国際価格を維持した。
そして、終戦に至るまで第一次世界大戦時の5%国債よりも
低い金利の3%国債が大量に発行された。


(中 略)


このように、第二次世界大戦のファイナンスは、各国とも
対外資本移動を禁止した閉鎖経済の中で、「順調に」進んだ。

これらの四カ国(英、米、独、日、引用者注)は低金利を維持し、
市中銀行や生命保険会社だけではなく、中央銀行によっても
巨額の国債が消化された。


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、402ページから)

(引用終わり)



同書の417ページには、当時の日銀のトップの
人間たちは、日銀が政府の国債を引き受けるという
恐ろしい「禁じ手」に手を染めたということを
自覚していた、とも書かれています。



(引用始め)


・・・『日本銀行百年史』第四巻[1984,p.55]には、

「昭和七年秋に本行が国債の本行引受け方式の実施に同意
したことは、やがて本行からセントラル・バンキングの機能
を奪い去る第一歩となったという意味において、誠に遺憾な
ことであった」

と記されている。


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、417ページから)

(引用終わり)



当時の日銀副総裁だった、深井英五(1871-1945、のち
第13代日銀総裁)が、日銀による引受けに最後まで
抵抗していた高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣
(1854-1936)にそっと寄り添って、

「いまこそ我が国も、アメリカが始めた、中央銀行に
よる国債の買い付けで市場を操作する、「公開市場操作
(オープンマーケットオペレーション)」を、
実施すべきです」

と進言したようです。以下の引用個所から
推測できます。



(引用始め)

日本においても、手形オペの対象がほとんど存在しない
経済情勢にあった。

このため、深井(日銀副総裁 :引用者注)は、日本銀行が
商業手形の売買に直接進出することで一般銀行と競合する
ことは考え物であるとしたうえで、

「日本銀行の国債売買によって金融市場との接点を密にする
ことが機宜の処置である。他日売買並行しうるようなれば
尚更(なおさら)結構であるが、当面買の一方で資金放出の
目的を達する」

と、国債によるオープンマーケット・オペレーションの
必要性を述べていた。


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、421ページから)

(引用終わり)



これで、日本の中央銀行である日銀による、
政府国債の引き受け、つまり、財政へ資金の融通
(ファイナンス、融資)がなし崩し的に実行されて
行く、その端緒が開かれました。

「ダルマ蔵相」で国民に愛された高橋是清
(たかはしこれきよ)日銀総裁(1854-1936)は、
「二・二六事件(1936年、現在のIS(イスラム国)
のように過激化した武力強硬思想に染まった、
当時の日本陸軍、皇道派の青年将校によるクーデター)」
で、青年将校の凶弾に倒れます。



(引用始め)

1936年度予算をめぐって、「軍・蔵」の話し合いは
事務レベルでは調整がつかず、35年11月末の閣議も軍の
激しい拡大要求で紛糾し、中断をく理解しながら延べ36時間
にも及んだという。

この閣議で、高橋蔵相は「ただ国防のみに専念して悪性インフレ
を引き起こし、財政上の信用を破壊する如(ごと)きが
あっては、国防も決して安固とはなりえない」と強く主張した。

しかし、軍事費の削減につながる国債減額は大陸進出をねらう
軍部の反発を招き、高橋蔵相は二・二六事件で倒れた。

それ以降、対満政策の追行、国防の充実、農山漁村の経済更生、
税制大改革の標語の下、財政支出は拡大を続けた。


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、424~425ページから)

(引用終わり)



高橋是清蔵相が、1936年2月に亡くなって
その翌年の1937年の後半から、国債の日銀に
よる引き受け額がみるみる増額を続けて行きました。

日銀が、日本政府が軍事予算を急拡大させるために
乱発しようとしていた国債を買い取り引き受けるという、
「ルール破り」の政策に、最後まで抵抗していた
ことが分かります。

まとめとして、著者の富田俊基氏も、以下のように書いて
います。



(引用始め)

●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、
第4刷、2011年刊、517ページ「おわりに」から)


第一次世界大戦時には、ヨーロッパ参戦国は総力戦を戦う
ために、金本位制を停止し、大量の国債をマネーファイナンスした。

戦争による経済の荒廃と急速に累増した国債によって、
戦後のドイツはハイパー・インフレーションに見舞われ、
フランスもその瀬戸際にまで追い込まれた。

交戦国は、国際収支の均衡に向けてデフレ政策を遂行し、
当然のことのように金本位制に復帰した。

このため、不況は大恐慌へと転じ、政治対立が激化した。

1930年代に入って、各国は「金の足枷(あしかせ)」から
逃れ、金ではなく国債を担保に貨幣を発行するようになった。

貨幣は、無限の将来に至るまで貨幣であるという人々の期待に
よって、交換の一般的な媒介手段という役割を果たしうる
わけだが、金ではなく国債を担保に貨幣が発行されるように
なると、中央銀行の行動いかんが貨幣価値と国際価格に
大きな影響を与える。

これ以前には、貨幣(通貨)の量は一定量の金と交換しなければ
ならないので濫発すべきではないという考え方が、国民に容易に
受け入れられてきた。

しかし、貨幣の発行が人智の裁量に大きく委ねられるように
なると、目先の便宜が優先されがちとなり、将来の悪影響を
考慮して適度に抑制されるべき通貨量の決定について、
政治の了解が必要とされるようになった。

言い換えると、政府は国債だけではなく、貨幣を裁量で
発行できるようになった。

こうして大量の国債発行が可能になったが、インフレ期待が
発生すると、国債金利は上昇する。

それでも巨額の戦費をまかなうために、第二次世界大戦に
至る過程で日本とドイツは対外投資を禁止した。

対外資本移動を禁止し、政府が中央銀行に影響力を行使すれば、
ほぼ無制限の国債発行が可能となる。

金利の自然な動きに逆らって、人為的な低金利政策が行われても、
国内の資金には実質価値を保全する方法がない。

実際、資本移動規制によって投資機会を失った資金は、大量に
発行される国債に向かわざるをえなくなった。

市場は、政治が作った枠組みの中でしか機能しえないのである。


(以後、略)


(引用終わり)



この著作の中でも極めつけは、以下の、
当時の大政翼賛会政策局参与や陸軍省事務嘱託を
つとめた、当時の経済評論家、高橋亀吉(1894-1977)
や、大蔵大臣であった賀屋興宣(かやおきのり、
1889-1977)の、暴走した発言です。

これらの言い分が、いまの私たちの内閣や
財務官僚や日銀官僚から聞かれる瞬間がやって来ます。

そのときに、私たちがその暴走をどうやって
食い止めるのか。


権力者たちの言動を厳しく、鋭く監視を続けることが、
これからますます重要になります。



(引用始め)

高橋亀吉は、1939年4月に

「いま、仮に百億の赤字を向(むこ)ふ二十年に填充する
として、その年々元利必要額は7、8億円となり、
それだけの新たなる国民経済上の所得が増加すれば、
事変に基づく我国民経済上の赤字は十分填充せられるわけで
あるが、この程度の国民経済上の所得増加は、東亜ブロック
を結成せし後の日本にとっては、必ずしも難事ではない
と見て大過ないであろう」

ときわめて楽観的な見解を述べていた。


さらに、戦争が拡大する中で、賀屋蔵相は1944年1月の
第八四議会で、

「私は国債が増大すればする程 戦争に勝つ可能性が高い
と思う。国債を余計出せないような状態は、敗戦の傾向である。
・・・・・・要するに勝つか負けるかであります。・・・・・
只今は公債が大なれば大なる程 償還が確実である」

と答弁していた(『昭和財政史』第六巻[1954,p.395])。

こうして、1936年に約100億円であった長期国債残高は、
44年度末には1076億円となった。これに短期証券と
借入金を加えた国の債務残高は、36年度末113億円、
44年度末1520億円で、国民総生産に対する比率は、
36年63.5%から、・・・44年204%に上昇した。

これらの国補債務の保有状況・・・国家債務の増大とともに、
日本銀行、民間銀行、そして(引用者注:郵便貯金の)預金部
の国債保有が著しく増大していった。


●『国債の歴史』(富田俊基、東洋経済新報社、第4刷、
2011年刊)429~430ページから

(引用終わり)



本年、2016年1月29日に、日本の中央銀行
である日銀が、「マイナス金利」を導入しました。

この瞬間から、日本国内には、大きな「金融時限爆弾」
が仕掛けられました。

この事態は、世界の金融業界にも大きな動揺と錯乱を
引き起こしました。


さらに今年、2016年の年初から、世界的な株式
の連鎖暴落と、これまでの「円安(ドル高、他通貨高)」
から反転し、円高への大きなうねりが巻き起こりました。

この日本の「マイナス金利」政策を震源とする
巨大な「直下型地震」が引き起こした「金融津波
(ファイナンシャル・ツナミ)」は、
ものすごい力で全世界の金融市場と金融システムを
飲み込んで、崩壊させてしまうでしょう。


この事実を、各国の経済情勢や各市場、世界の企業
でこれから実際に生じる危機や破たん、金融市場の
暴落、崩壊などの「金融危機、財政危機」を一つ一つ
取り上げながら、その被害の規模を検証していきたい
と思っています。

その際に、これまでの歴史のなかで、似たような
事態が起きていたことと比較しながら、史実から
学ぶことも重要だと考えています。


通貨が現在のようにジャブジャブ乱造され、ほぼ無制限に
増刷され続けている現代の世界の通貨システムの欠陥を、
分かりやすくまとめています。

少し長くなりますが、大変重要で、現在の
「マイナス金利」政策への突入という異次元の
歴史的な体験におびえる私たちにも、
つい60、70年前の過去の過ちの歴史が、
はっきりと、このまま突き進むとどのような
事態におちいるのかを教えてくれる重要な歴史
解説なのでそのまま引用しました。


どうぞじっくりお読みいただいて、私たち自身の、本当につい最近である、第二次世界大戦前の歴史から学べることを、今からでもどんどん吸収していただければと思います。



▲ネオネクスト・エクスプレス Vol.103▼より、転載しました。m(_ _)m



*ご参考まで!



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